ダッカ、ボスティ・コライルにある一室。青い壁に囲まれ、使い込まれた机と黒い椅子がある。椅子の真上には、穏やかに微笑み、威厳に満ちたムハマド・ユヌス暫定政府首席顧問の肖像画が掛かっている。しかし、その下の椅子は空っぽだ。それは、国家の不在、あるいは沈黙を想起させる象徴的な光景である。

ボスティ コレイルを歩き回っていたときに、一人の青年が  『これを見てくれ!』と案内してきた部屋。

通貨はしばしば、経済や流通という制度的な文脈で語られる。しかし、紙幣や硬貨に印刷された人物や風景に目を向けると、それらが単なる支払い手段ではなく、国家の自己イメージであることがわかる。国家はどのような人物を象徴として提示し、どのような歴史を記憶しようとするのか。貨幣は国家のアイデンティティを形作る鏡であり、教科書よりも強く国家の物語を浸透させる装置なのだ。

バングラデシュ 500タカ紙幣のムジブル・ラフマン

バングラデシュではイード・アル=アヅハ(犠牲祭)を前に新紙幣が発行された。何十年もの間描かれてきた「建国の父」、シェイク・ムジブル・ラフマンの肖像はない。代わりに、ダッカのアフサン・マンジル、国立記念碑のイメージ、歴史的建造物カンタジェウ寺院などが登場している。象徴の再構築は、政治的な意図を伴う記憶の刷新でもあるのだ。
比較してみよう。アメリカのドル紙幣には、ジョージ・ワシントンやリンカーンを通じて、建国と法の理念が刻み込まれ続けている。インドでは、マハトマ・ガンジーがあらゆる紙幣に描かれ、倫理と統一を語っている。2024年に刷新された日本の円は、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎が特徴で、「教育」「公衆衛生」「改革」に国家の未来を見出す姿勢がにじみ出ている。

アメリカ 1ドル紙幣のワシントン

インド 200ルピー紙幣のガンジー

そこで疑問が湧く。貨幣の顔が消えるとき、国家は何を伝えようとしているのか。ムジブルの不在は、単なるデザイン変更の問題ではない。そして、暫定首席顧問のユヌスは、総選挙の時期や様々な改革を巡って辞任を示唆している。国家の象徴が通貨から消えるとき、国家が語る物語も変化し、それは時に変動する政治的正統性として現れる。
私がボスティ・コライルで撮影したユヌスの肖像は、国家が提示する象徴とは異なる、生活の現場における象徴の存在を示していた。スラムの小さな商店では、通貨そのものが米であり、油なのだ。モバイル決済や銀行が機能しない場所では、現物のタカ紙幣が生活の血流となっている。

ダッカ ボスティコレイルの個人商店

そこでは、ムジブルが描かれているかどうかは、誰の顔であるかではなく、人々に共鳴するかどうかの問題となる。国家が語る記憶が人々の現実から乖離するとき、通貨が象徴するものもまた空虚になるのだ。
しかし、象徴は無力ではない。国家が誰を紙幣に描くかの選択は、やがて教科書に反映され、教育政策となり、選挙のスローガンへと広がっていくだろう。私が写真と文章を通じて示したかったのは、通貨が単なるシステムではなく、記憶を取り巻く政治的な空間であるということだ。
【ここでの写真は、通貨が何を語り、何を語らないのか、額面を超えた国家の価値、そしてユヌスの肖像の下の空の椅子、消えた顔の下に確かに横たわる沈黙を視覚化している】
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