Fragment:001
フリーダム・インド

信号は止まらない。都市は、誰にも止められない。
赤信号で止まる車列。そのすき間を縫うように、家族を乗せた一台のスクーターが交差点に滑り込んできた。
前から少年、父親、少年、そして母親。四人乗り。
誰も怯えてはいない。小さな体を器用に折りたたむようにして、ぎゅっと寄り添い、当たり前のように都市の一部になっている。
都市の鼓動は速い。信号がどうであれ、流れが止まれば別の道を探す。
このスクーターが停車していたのは、前が詰まっていたからだ。ただそれだけ。
そしてそれは都市の「律」ではなく、都市の「呼吸」に従っているのだと気づく。
運転する父親の背中は堂々としている。ヘルメットは彼だけがつけている。
前にしがみつく子どもの足は、バイクの前輪近くまで投げ出されていた。
後ろの少年は必死にしがみつき、母親は冷静に口を引き結び、手を子の胸に添えている。揺れにも暑さにも慣れているような、強い眼差しだった。
彼らはその後、スムーズに車列を抜けて走り去っていった。
後ろに揺れる布、強い日差し、そしてすぐ脇に見える別のリキシャたち。
その瞬間、胸に一つの言葉が浮かんだ。
「フリーダム・インド」──皮肉でも賞賛でもない、ただの観察として。
日本の都市でこんな光景を見たら、おそらく通報の対象になるだろう。
ヘルメットをしていない子ども、四人乗り、混雑した幹線道路。
だが、インドではこれは日常の一部として受け入れられている。
そして不思議なことに、そこには「無秩序」ではなく「秩序の再解釈」がある。
この写真の背景に写っていたのは、幾台ものリキシャたち。
三輪タクシーが並走し、混線するように交差しながら、それでも都市は流れている。
「危険」かもしれない。でもそれ以上に、「生活の知恵」と「都市の対応力」がそこにある。
家庭に車がないなら、バイクがある。
バイクに4人が乗れない決まりがあるなら、その決まりを超える工夫をする。
制度は往々にして、現実に追いついていない。
追いつけない制度を、人々の側が“日常”として咀嚼し、進み続けているのがこの国の都市だ。
私は観察者だ。
だから判断はしない。
この家族の在り方を、「違法」とも「理想」とも呼ばない。
だが、カメラを通して私は確かに見た。都市が持つ生の躍動を。
スクーターの上に乗っていたのは、単なる人間の塊ではない。
それはひとつの「家族」であり、同時に都市の「構造体」だった。
それぞれの体温と意志が重なり合って、路上のリズムの中を滑っていた。
彼らは『生きていた』。誰よりも、自分たちのペースで。
自由とは、誰にも止められないことではない。
誰かと一緒に、それでも前に進んでいけることだ。
命を背負いながら走るスクーターの後ろ姿が、それを教えてくれた。
Fragment:001「フリーダム・インド」
これは法律でも統計でもなく、ある都市の断片。
その片隅に私は立ち会ったのだ。
2023 インド・ニューデリー
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