Fragment:002
街を歩けば牛に当たる

道を曲がろうとすると牛がいた。
角から顔を出し、堂々と道路の中央を見据えている。
目の前を車が通り過ぎようが、誰かが急いでいようが関係ない。
彼らにとってここは道ではなく、居場所なのだ。
首都の交通量の多い交差点で私はこの牛と目を合わせた。
たしかにそこにいた。ただいる。それだけ。
しかしその存在感は妙に強く、静かで、揺るぎない。
ヒンドゥー教において、牛は神聖な動物とされている。
街の中に牛がいることは、宗教的には何の違和感もない。
むしろ祝福に近い。通りがかりの人が額を下げ祈ることすらあるらしい。
だが一方で、都市という構造物は「効率」と「秩序」によって成立しているものだ。
牛が車道をふさげば、交通は滞る。誰かが遅れる。イライラする。
それでも、誰も牛を怒鳴らない。蹴らない。クラクションすら遠慮がちだ。
この都市には、「動かないものに合わせて動く」という論理が存在する。
それはまるで、「神聖なるものには抗わない」という静かなコンセンサスのようでもある。
写真の奥には、銀色の車と数人の歩行者。
誰もが牛を避けて歩いている。まるでそれが道の一部であるかのように。
だがよく見ればその場面は極めてシュールだ。
都市計画と宗教的感性が、物理的に衝突している。
だが不思議と、そこに混乱はない。
混乱がないというより、人々が最初からその不整合に適応しているのだ。
私はこの写真を「笑える日常」としてではなく、
「文化が都市を形づくる具体的な証拠」として記録した。
​​​​​​​日本では動物が車道にいれば即通報され排除され飼い主が問責される。
だがここでは違う。
問責されるのは急ぎすぎる者かもしれない。
遅れたとしても、それは『牛がいたから仕方ない』の一言で終わる。

この都市では神聖と実用が衝突せずに共存している。
それは宗教というより、もっと根深い文化的リズムに近い。
「街を歩けば牛に当たる」
それは笑い話ではなくある都市の設計思想そのものだ。
人間だけが都市を形成しているのではない。
神聖も、動物も、偶然も、すべてが都市の部品として受け入れられている。

Fragment:002「街を歩けば牛に当たる」
その包摂性の中に、
私は生きている都市の姿を見た。
2023 インド・ニューデリー
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